トップページに戻る   メール  
私の育った昭和30年代 増殖中
はじめに 電 話 冷蔵庫 おくどさん 洗濯機
風 呂 テレビ 炬燵・火鉢 ラジオ 蚊帳・かき氷
泥 棒 井戸・水道 しじみ つぎ当て
セーター 遊 び コーヒー 天気図 パ ン
映 画 あられ 地球ゴマ 便 所 歯磨き粉
卓袱台 三和土 日光写真 紙石鹸 蝿取り紙
ケーキ 天花粉 番 傘 食い合わせ 台風と水害
傷痍軍人 ふんどし 卵のご飯
はじめに  三種の神器
 私が生まれ育った時代は、太平洋戦争の無条件降伏(1945年8月15日)のあとの混乱期は過ぎていましたが、戦争が生々しく記憶されている時代です。1950年に連合国軍最高司令官総司令部の指令に基づくポツダム政令により「警察予備隊」が設置され、52年に「保安隊」となり、54年7月には「自衛隊」に改組されました。その間に朝鮮戦争があり、日本の基地から米軍が出撃していきましたので、平和憲法はあったものの、戦争がなくなったとは確信しにくい気分が人々の間にありました。

 流行語を見ると1955年に「3種の神器」という言葉がはやっています。「電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビ」を言うのですが、おそらく40代の方でも電気式でない冷蔵庫はご存知ないのではないでしょうか。電気式が登場するまでは、いわば木製のクーラーボックスでした。上段にブロックの氷を置き、その冷気で冷やす方式です。「3種の神器」が流行語になるのは、それが欲しい、つまり持っていないと言うことで、豊かになりつつはあるけれども、それらを買う余裕はありませんでした。

 電気式でない洗濯機は無かったと思います。じゃあ、どうやって洗濯していたのかと言えば、「たらい」と「洗濯板」、「固形石けん」でゴシゴシ手洗いしていたのです(言葉自体が分からない若い世代の方はネットで検索して下さい)。テレビは夢のまた夢です。テレビ放送が始まったのでさえ1953年2月です。基本的には59(昭和34)年4月まで一般の家庭にテレビはありませんでした。平成天皇の結婚パレードを見るためにテレビの普及が進んだのです。
電  話
 メールなんぞという瞬間的なコミュニケーション手段が無かった時代を、若い世代の方は想像すらできないでしょう。「携帯」の電話機能を使うのは「おじさん・おばさん」で、若い方はほとんど使わないと思いますが、「電話」すら無かったのですから。

 電話自体は明治時代からありますが、長らく会社・商家にしかなかったのです。一般の個人には緊急の用事がない時代、手紙で用が足りた時代とも言えるでしょう。緊急時には電報を打ったものです。

 わが家では隣家が商売をしていましたので、必要がある時はお隣に電話を借りに行ったものです。若い方はボタンを押すイメージでしょうが、壁に固定された電話機に付いたハンドルを回すと電話交換局につながり、交換手の女の人に「○○番をお願いします」と頼んで繋いでもらうのです。しゃべる部分は本体に付いており、相手の声を聞く部分だけ分離しているタイプです。

 わが家に電話がやってきたのがいつだったのか、両親に聞いてみましたが、記憶が判然としません。私もはっきりとした記憶がないのですが、父親の言い分が正しければ、67年か68年、つまり6年生か中学1年の時になります。それに母親の言い分を足すと67年になりそうです。日本全国で電話加入数が1000万を超えたのが68年のことです。その多くが会社・商家であることを考えると、一般家庭への電話が普及しだしたのはその頃なのでしょうね。
冷 蔵 庫
 この項目を書くために両親にいろいろ確かめました。残念ながらお互いに正確なことを覚えていないことが判明しただけでした。両親は歳を取ったがために、私は幼かったがゆえに。しかし、その中で新しい事実を知りました。氷式の冷蔵庫についてです。

 私は電気冷蔵庫が普及するまでは、どこの家にも氷で冷やす方式の冷蔵庫があったのだと思っていましたが、どうもそうではないようです。両親がわが家の氷式冷蔵庫はお隣から貰ったと言うのです。それは知りませんでした。と言うことは、お隣がいち早く「電気冷蔵庫」を買ったため、お古の「氷式冷蔵庫」を頂いたのでしょう。

 そしてそういう冷蔵庫でさえ、一般家庭にはなかったそうです。お隣が商売をしていて、わが家はラッキーだったんですね。電気冷蔵庫を購入したのも明確ではありませんが、氷式をはっきり覚えているのですから、電気冷蔵庫になったのは早くても小学校の低学年ぐらいではないでしょうか。つまり63〜4年と言う所でしょうか。
おくどさん(かまど)  電気炊飯器
 若い方々でも「かまど」でご飯を炊いているシーンをテレビで見たことがあると思います。信じられないかも知れませんが、私が幼い頃は、まだまだそれが一般的だったのです。ですからどこの家も「割り木(マキのことです)」を「薪炭店」から購入していたものです。それを「よき(斧)」で半分、あるいは1/4に割って使ったものです。そうした作業は当時、子供が担っていたと思います。

 わが家の「おくどさん」は焚き口が二つでした。他の家がどうかは知りませんが、多分これが一般的だったでしょう。これでご飯を炊き、おかずの煮炊きをしていました。また、おかずの煮炊きには「七輪」も活躍していました。「おくどさん」があるということは、「お勝手(台所)」が土間だと言うことです。今思えばずいぶん不便でした。食事の支度に何度も何度も上がり下りを繰り返さなければならないのですから。

 一身田にも管が敷設され、ガスの普及が進みつつあったのですが、中心部優先ですから、わが家に都市ガスが来るのは大分遅かったと思います。それまでの間は「プロパンガス」を導入していました。これがいつ頃だったか、ともかくも小学校の時には重たいガス台がありましたから、恐らく65〜6年ではないでしょうか。マッチで着火するタイプです。それでもしばらくの間は「おくどさん」でご飯を炊いていたと思います。それから程なく、「電気炊飯器」がやって来ました。あれで母親はずいぶん家事が楽になったと思います。
洗 濯 機
 「たらい」での洗濯は水がこぼれるため、外でしなければなりません。従って冬場は辛い作業になります。1953年に三洋電機が低価格の洗濯機を売り出すと、一躍主婦の憧れの的となりました。ひび・あかぎれに悩まされる女性にとっては当然のことでしょう。ただし低価格と言っても28,500円です。会社員の月給が1万円もない頃ですから、ちょっとやそっとのことでは買えませんでした。

 わが家が洗濯機を買ったのは多分60年代の前半でしょう。当然ながら脱水装置はありません。ローラーが付いていて、そこに洗濯物を差し込んでハンドルを回し、洗濯物をぺちゃんこにするタイプのものでした。それでも「たらい」で洗濯することや、手で絞ることを考えたら、母にとっては非常にありがたかったことでしょう。

 このようにして、「おくどさん」のある土間のお勝手は少しずつ、少しずつ電化されて行ったのです。
お 風 呂
 あえて「お風呂」の項目をおこすこと自体に違和感を覚える世代があるかも知れません。しかし私の育った時代、自宅に風呂がないのが当たり前でした。手ぬぐい(タオルではなかったと思います)を持って銭湯へ行く、これがごく普通の庶民の生活だったのです。私の大学時代でもアパートには風呂がないことの方が多く、1970年代・80年代、学生は銭湯に通ったものでした。

 わが家の場合は歩いて5分の所に父の生家があり、そこへ「もらい湯」、つまりそこでお風呂に入らせて貰っていたのです。まだまだ当時は「内風呂」は贅沢な感じだったのでしょう。社会全体として貧しかった時代ですから、燃料代の負担が大きかったのでしょうね。ただ、私には「もらい湯」をしていた記憶がほとんどありませんから、昭和34〜5年には内風呂になっていたのではないでしょうか。

 その時の風呂は「五右衛門風呂」です。釜の下で「割り木」を燃やして焚きます。当然釜の底は熱いですから、素足では入れません。恰も木製の蓋のような「すのこ」を底に沈め、その上に乗っかるのです。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には関西で流行し始めた五右衛門風呂を知らず、「すのこ」を蓋だと思いこんでいる「弥次さん」が便所下駄を履いて入り、釜の底を抜いてしまう騒動が出てきますが、私たちの時代は、江戸時代からの伝統的な風呂に入っていたのです。

 冬場は「熾き(おき)」になった焚き口にさつまいもを放り込んで、焼き芋を作るのが子どもたちには楽しみでした。
テ レ ビ
 上述したように、NHKがテレビ放送を開始したのは1953年2月1日です。NHK放送技術研究所のサイトによれば、「この時点での受信契約数は866件、うち都内の契約は664件。そのうち、482件がアマチュアによる自作の受像機であった」(日本放送技術発達小史)とされているように、一般家庭には無縁な家電製品でした。

 都会では「街頭テレビ」が設置され、人々がプロレス中継などに群がったようですが、田舎ではそんなものもなく、庶民の映像娯楽は「映画」のみでした。しかし徐々に受信契約数も増え、「3種の神器」としてテレビに関心が集まりはじめ、1959年4月、皇太子(今の平成天皇)の結婚を控え、その様子が見たいという人々の欲求が受信契約数を200万台にまで押し上げ、以後、急速に普及が進むことになります。

 商売をしていた隣家はテレビの購入も早く、しょっちゅう隣へ行ってテレビを見たものです。お隣の連子(れんじ)格子が2本外してあって、私と弟が窓から出入りできるようにして貰ってありました。そこには近所の大人も群がっていました。その後、1959年にわが家にもテレビがやってきたのでした。

 当時、テレビはとても丁寧な扱いを受けていました。立派なものは観音開きのケースに収まっていましたし、それほど立派でないわが家のテレビでも、房の付いた舞台の緞帳のような幕を垂らし、見ない時の埃除けとしたものでした。今、リモコンと言えば赤外線でチャンネルを替えますが、当時はテレビにケーブルでつながっている「有線」のリモコンでした。

 「隣のテレビにゃ色がある、あらま綺麗と、よく見たら、サンヨーカラーテレビ」というコマーシャルがありましたが、テレビがカラーになったのは後のことです。第1次のブームは1964年の東京オリンピックです。このときに母の実家がカラーテレビを買ったものですから、開会式は母の実家で見ました。

 第2次のブームはNHKがラジオの受信契約を廃止し、かわりにカラー放送の受信契約を創設した1968年です。それまではモノクロでの番組制作が多かったため、カラーテレビでもカラーでない番組が圧倒的だったのですが、この時からカラーでの番組づくりが大幅に増え、急速にカラーテレビへの買い換えが進みました。1973年にはカラーテレビの普及が白黒テレビを上回っています。
炬 燵 と 火 鉢
 昔の日本家屋は寒かったものです。雪もよく降りましたから、気温も今より低かったでしょう。しかし暖房と言えるものは火鉢(陶製の丸火鉢)しかありませんでした。火鉢に藁灰を入れ、炭を置くのです。そして五徳(鉄の輪っかに3本の足がついたもの)を置いて、その上に薬缶を乗せていました。部屋全体が暖まるわけではありませんでしたから、暖房と言うよりも手や体を温めるために、火鉢にくっつくようにしていたものです。

 ただ鍋をかけておけば煮物ができますので、七輪に火を熾す必要がありませんし、鍋や薬缶のおかげで蒸気が出て、部屋の乾燥は防げたのではないでしょうか。正月ともなれば金網を置き、餅を焼いたり、するめを焼いたり、まわりでミカンを食べたりという風景が展開されました。それが江戸時代以来、長らく続いた家庭内での正月風景なのですが、炬燵と石油ストーブの登場で風景は一変しました。

 炬燵は昔から中に炭を入れるタイプのものがありましたが、火事の危険性があるせいか、近辺で使っていた家はないように思います。ここで言う「炬燵」は「電気炬燵」のことです。全国的には1956年に赤外線タイプの炬燵が登場していますが、一般的に普及し出すのは、60年頃、いかにも暖かそうに熱源が赤く見えるタイプが発売されてからです。

 石油ストーブのおかげで、はじめて部屋全体を暖める発想が定着したのだと思いますが、それにしても学校にはストーブがありませんでしたから、教室はずいぶん寒かったはずです。それにもめげず、私たちはバケツに水を汲み、雑巾を濡らして教室の床や廊下のふき掃除をしていました。

 寒いと言えば、学校の横を流れる毛無川がよく凍りました。川が凍るとイタズラ小僧たちは氷の上をスケートよろしく靴で滑るのですが、案の定、氷が割れて水浸しになるオチがついていました。
ラ ジ オ
 テレビが普及する前は一体どのようにして情報を得ていたのか、と言えば新聞とラジオです。新聞は今と同じですが、ラジオは違います。ものものしいと言えばいいか、大きかったのです。わが家では水屋の上に「でん」と鎮座ましましていました。幅は30〜40pあったでしょうか。つまみを回して周波数を会わせる点では今と変わりありませんが、とにかく大きさが違います。

 なぜ大きさが違うかと言えば、真空管ラジオだからです。現在のように「IC」チップがありませんから、大きな真空管で回路が構成されていたのです。その大きなラジオの前に家族が集まって、ニュースを聞いたり、浪曲や落語を楽しんだり、子供であれば「赤胴鈴之助」に夢中になったのです。また、台風が近づくと、ラジオの気象情報に耳を傾けたのです。

 その後、ラジオは真空管からトランジスタへ移行するのですが、テレビが普及し出したためにラジオへの関心は薄かったのではないでしょうか。わが家がトランジスタラジオを買ったのは67〜8年だと思います。そのトランジスタラジオを机や枕元に置き、深夜放送を楽しんだのです。その結果がこのサイトの「70年代洋楽」、そして「60/70年代日本の歌」につながっていくのです。
蚊 帳 と かき氷
 冬場の寒さの話はしましたが、夏場の生活はどうであったか。暑いことは暑かったけれども、今ほどではありません。真夏でも30度を超える程度ではなかったでしょうか。ちなみに津地方気象台のデータでは、1956年8月の津市の平均気温は25.8度、2008年の場合は27.7度です。これだけでは何とも言えないでしょうが、データにリンクしておきますので、ご自分で経年変化をご覧下さい。

 暑い時期に問題になったのは「蚊」の存在です。1960年代に「コガタアカイエカ」が媒介する日本脳炎の発生が多くなり、どこの家でも蚊帳を吊ったものです。勿論、蚊取り線香も欠かせません。暑い時期に暑苦しい感じがしますが、それでも寝られたのは、やはり今ほど暑くなかったのでしょう。67年以降、ワクチン接種が進み、あまり日本脳炎も言われなくなり、蚊帳も使わなくなったように思います。

 当時、夏場の夜の楽しみは、かき氷でした。近所に駄菓子屋さんがあり、そこでかき氷をやっていました。近鉄と阪神ファンの父がモノクロテレビで阪神巨人戦を見ながら(下位低迷の近鉄戦の中継はありませんでした)、「よし、買ってこい」と言うのを楽しみにしていました。若い方々はビックリするかも知れませんが、家からどんぶりを持っていって、20円分とか30円分とか買ってくるのです。それで家族四人が十分に楽しめたように記憶しています。
泥  棒
 妙な項目をおこしましたが、泥棒にも今昔を感じています。実はわが家は2回泥棒に入られています。最初は裏の窓を破って侵入しましたので、裏の窓にはすべて連子(れんじ)格子を取り付けました。しかし2回目は、なんとなんと、便所の汲み取り口から侵入したのです。

 想像が付くと思いますが、汲み取り口から侵入すると言うことは、犯人は糞尿まみれになると言うことです。それで家の中を歩き回るのですから、盗難被害よりも、家中が糞尿まみれになることの方がショックが大きいです。何しろ犯人は後始末をしてくれませんから。しかし汲み取り口から入る覚悟がよくできたものだと、変に感心してしまいます。また、そんな身体でよく逃げおおせたものです。どこかで洗ったにせよ、臭いは簡単には取れませんからね。

 現在ですと、泥棒の被害は現金であったり、カードであったり、宝石類だったりしますが、わが家には宝石類はありませんし、当然カードも存在しません。何を盗って行くかと言えば、父の背広や靴なのです。今ではちょっと考えられませんが、30年代の社会の貧しさがこんな所にも現れているような気がします。
井 戸  と  水 道
 津市の中心部には早くから水道が引かれていました(1929年、つまり昭和4年8月1日供給開始、2009年でちょうど80周年)が、一身田に水道が引かれたのはずいぶん後です。一身田中心部はもう少し早かったでしょうが、わが家に水道が引かれたのは1961(昭和36)年10月のことです。

 それまでは井戸水を利用していました。家の裏に井戸が掘ってあって、その水を洗面にも、炊事にも、お風呂にも使っていたわけです。ただ記憶にないのですが、のちに洗濯機が鎮座することになる勝手口の隅に、井戸水を濾すための瓶が置いてあったと両親は言います。煮炊きと飲み水だけはその瓶で濾した水を利用していたとのことです。

 そうなると殆ど時代劇の世界ですね。昭和30年代までは、社会の変化が緩やかだったと言うことでしょう。そう言えば、家の裏に使っていない大きな瓶が長らく置いてありましたから、恐らくはその瓶が使われていたのだろうと考えられます。父親の話では、一身田の井戸水はあくが強く、手ぬぐいを浸けておくと茶色くなったそうで、そのために砂や炭などを入れた瓶で濾していたそうです。

 お風呂に水を張るためには、一旦流しでバケツに受け、流し(タイル張りでした)の横にあった風呂の窓から手作業で入れていたそうです。昔の家は「お勝手」には「つし」と呼ばれる半2階的な屋根裏の物置が口を開けており、わが家ではちょうど風呂の焚き口の上で、バケツで水を入れている時に、母親とおんぶされている私の間に、「つし」から蛇が落ちてきたことがあったそうです。しかしこれではあまりに面倒なので、のちにポンプにブリキの筒を嵌め込み、樋のようにして窓から水を流し込むようにしました。
牛 と 農作業
 一身田でも、私が生まれ育った「平野」は農村(明治の初期は平野村でした)です。小さい時は農作業は機械化されておらず、すべて手作業でした。ただし脱穀には人間を動力とする、つまり人力の「千歯扱き(せんばこき)」(木製の台に櫛状の歯が付いていて、稲の束を櫛に挟み、ペダルを足で踏んで固定し、稲を引き抜くと脱穀できる)を使っていました。

 わが家は農家ではありませんが、本家が農家で、その分家ですから、シーズンになると両親とも手伝いに行きました。田植えは一家総出でも手が足りず、隣接する栗真地区から応援を貰っていました(その代わり、栗真の漁業の手伝いに行きます。その風習も30年代の前半までだったようです)。

 一度に10人くらいの人が田圃に入り、田圃の端から端まで届く縄を張り、目印の赤い布の所に苗を植えていきます。一列植え終わると、かけ声とともに縄を移動させ、また同じ手順を繰り返します。常に腰を曲げた状態での作業ですから、大変な重労働です。稲刈りも鎌を片手に腰を曲げての作業です。リズミカルに一株、二株、三株と刈り取っては腰に下げた藁で一束にくくり、その場に置いていきます。

 このようにすべて手作業ですが、田植えの前に「田おこし」をするのに牛を使っていました。牛に鋤を引かせて田圃を耕す作業です。これはさすがに人力では極めて厳しい作業になりますから、どこの農家でも一頭の牛を飼っていました。また、牛は大八車(側板のないリヤカーの大きいものと考えればいいでしょう)を繋いで輸送力としても使いました。下肥を運んだり、米を積んだりした牛がわが家の前を行き来していました。牛が歩いた後には、あちこちに牛糞が落ちていたものです。

 大学時代、高田馬場、池袋、次いで練馬区大泉学園に住みましたが、その大泉学園に引っ越した1977年か78年、引っ越した翌朝、どんな街か見てみようと一回りしていた所、どこからか「モォー」という声が聞こえてきました。まさかと思いつつ探してみると、牛小屋を見つけました。「一身田でも見なくなった牛と、こんな所で再会するとは」と大いに驚きました。当時練馬区はまだ田舎だったのです。
志登茂川で しじみ採り ツクシ採り
 わが家の裏には田圃が広がっており、その向こうには志登茂川が横たわっています。子供の頃はよく志登茂川へ行ってシジミを採りました。河口からはかなり上流になるのですが、近鉄の鉄橋跡(家を建てた昭和29年頃、近鉄線は今よりもっと西を走っていたのですが、しばらくして現在地へ変わりました。せっかく駅に近い所に家を建てたのに駅が逃げていったのです)付近、北部市民センターの裏手あたりで採っていました。

 今でも江戸橋の方では採っていますが、わが家の方でも採れるのでしょうか。中学に入ってからは行かなくなりましたので、シジミが採れなくなったために行かなくなったのか、採れるけれども行かなくなっただけなのか、よく分かりません。でも、今子供がそんなことをしていたら、叱られるんでしょうね。

 また、春になれば志登茂川の土手は「つくし採り」には絶好のポイントでした。春に入る前に野焼きされた土手は、南向きの斜面にびっしりと土筆が並んでいました。飼い犬の「チロ」を連れて弟と土筆を採るのですが、子どもたちは採ってくるばかりで、土筆の袴を取る作業は母の仕事になるのです。まあ、時々は袴取りも手伝うのですが、指先や爪の中が真っ黒になったものです。今では野焼きもできませんから、土筆は殆ど上がらないようです。
つぎ当て
 昭和30年代の子どもたちの衣服には、「つぎ」があたっていました。このように書いても、「つぎ」の意味が分からない世代もあるでしょう。隔世の感がありますが、「つぎ」というのは、膝や肘など、子どもたちはよく服やズボンを破りましたから、破れた所に裏から別の布を当てて縫いつけることです。中には可愛らしい動物の形などにして、表からアップリケのように縫いつけてある子もいましたが。

 当然、生地も色も柄も違いますから、目立ちます。しかし、すぐに大きくなって何年も着られない子供服を、簡単に買い替えるような経済的な余裕は、殆どの家庭にはありませんでした。従って多くの子どもたちが「つぎ」のある服を着ていましたので、恥ずかしくも何ともなかったのです。服やズボンだけではありません。靴下だってそうです。親指の部分がすぐに破れてくるので、靴下の場合は2度も3度も「つぎ」を当てたような気がします。

 1960年に池田勇人首相が「所得倍増計画」を発表し、社会は「高度経済成長」に向かって進んでゆくのですが、私の身の回りでは、そのテンポは緩やかで、小学校の間、「つぎ」との縁は切れませんでした。「つぎ」を「恥ずかしい」と思わざるを得なくなるような経済状況になるのは、中学校に入った68(昭和43)年頃からだったと思います。その頃から、カラーテレビや電話の普及が進んでいきました。
セーター
 専門店やショッピングセンターへ行ってセーターを買う、これはどうと言うこともない日常的な風景です。しかし昭和30年代は、当たり前の風景ではありませんでした。ではどうしてセーターを手に入れるかと言えば、毛糸を買ってきて編むのです。手編みの場合もありますし、編み機による機械編みの場合もあります。また、毛糸を持って行って、得意な人に編んで貰うこともありました。この方が多かったと思います。

 わが家の場合は、母が編み物が好きだったので、私の着るセーターはすべて編んでくれましたし、よそ様から頼まれて、毎日編み機に向かって作業していました。いくらくらいの編み賃を貰っていたのかは知りませんが、当時はどこの会社も月給が安く、父の稼ぎをカバーする重要な仕事だったと思います。

 小学生が元気に走り回っていれば、必然的にセーターは傷んできます。ちょっとした綻びであれば修復は可能ですが、子どもの成長という問題もありますから、いずれセーターをほどいて縮れを取り、別のセーターとして編み直します。その過程に子どもの出番があります。ほどいた毛糸をロープのように巻き取るのですが、それに両手を通して支え、今度は玉に巻く作業をします。その両手に子どもの手が使われるのです。

 セーターは編むものだと信じて疑わなかった小学生は、やがて中学に入り、行動範囲が広がる中で、「セーターを買う」という行為が世間に存在することを知りました。そして結構セーターが高いものであることも知りました。なるほど、こんなに高いのなら、所得の低い地方の農村部ではセーターは買えないなと納得したものです。
遊 び
 学校でする遊びと地域での遊びには違いがあります。校庭は平坦ですから、平坦さを利用した遊びをすることになります。その典型として、「さんか」というのがありました。地面に大きな円を描き、内部に十字の通路を設定し、不定形の曲線で円を囲み、1/4円部分に島を描きます。「さんか」の意味は全く分かりませんが、一方のチームが「さん」と言い、他方が「か」と応じる所からゲームが始まります。「鬼ごっこ」の変形なのですが、全員を捕まえるか、逃げ切るかを、その図形の内外で競うのです。外部はケンケン(片足飛び)でなければならない規定がありました。

 これと基本は同じですが、図形の違う遊びもありました。でもどんな図形だったか、どんな名前だったか、忘れてしまいました。この他に校庭でよくやったのは、「缶蹴り」「相撲」「ドッジボール」「石蹴り」「ゴム飛び(基本的に女の子の遊びでしたが、男の子も入れて貰いました)」「ハンドテニス」などでした。

 ただ、こうした記憶の背景にあるのは冬の服装です。破れたり、つぎの当たったジャンパーで走り回っていたイメージしか湧いてきません。確かに思い出す遊びの多くは、体を温める類のものばかりです。季節に関係なくやっていたのは、「はじめの一歩」ぐらいではなかったでしょうか。これは雨のために校庭で遊べない時に、下駄箱の前でやってました。他には「花いちもんめ」も季節に関係がなかったように思います。

 今の学校にはありませんが、「攀登棒」も休み時間、思えばムダに登って体力を消耗していましたねぇ。紙の上での遊びもありました。紙の四隅に小さな1/4円を書きます。そこから芯を下にして鉛筆を立て、ちょっと斜めにして滑らし、できた線の端で同じことを繰り返し、3度目に自分の陣地内に線を到達させると、線で囲まれた部分が新たな陣地に加わります。これを順番にやって陣地を広げるゲームです。

 ビー玉(「みりん」と呼んでました)、おはじき、メンコ(「けん(券?)」と呼んでました)もしました。これらは学校の門のそばの文房具屋さんに売っていました。

 家に帰ると、当時はどこにでもあった原っぱでの遊びです。ここでよくやったのはチャンバラではなかったでしょうか。棒にまたがって馬に見立て、「はいよー、シルバー」とやっていました。戦争ごっこもしましたね。でもあれは今では考えられない危ない遊びです。原っぱの両サイドに分かれて、ただ石を投げ合うだけなのですから。よくもあんなことをしていたものです。

 田圃に積んである藁の束を掘り崩して空間を作り、「秘密基地」も作りました。田圃と言えば、水の張っていない冬場は、格好の凧揚げの場所でした。隣の家の「たけちゃん」が器用で、板を上手に切って鉄砲を作ってくれました。弾丸は「輪ゴム」です。鉄砲と言えば、竹で「水鉄砲」「杉鉄砲」も作りました。「たけちゃん」の家は養鶏場で、遊べる所が多かったので、大いに利用させて貰いました。お隣には「だっこちゃん」や「フラフープ」、「ホッパー」と言ったでしょうか、バネを利用してぴょんぴょん跳ねるものなど、いろいろありましたから、しょっちゅう遊びに行ってました。
コーヒー  トースト  バター
 高校1年の時、地理のK先生の最初の授業、なんでそんな話になったのかは覚えていませんが、「お前ら、コーヒー飲んだことないやろ、インスタントと違うぞ」というようなことを言われた記憶があります。そう、確かに「豆から挽いたコーヒー」なんぞ、田舎の高校生は飲んだこともありません。大体、一身田には喫茶店なるものは存在しなかったのですから。

 小学生の時、叔父さん一家が京都から越してきました。そこで初めて一身田とは全く異なる生活習慣を目の当たりにしました。カルチャーショックと言ってもいいでしょう。なんと叔父さん一家は朝食にパンを食べ、コーヒー(インスタント)を飲んでいたのです。都会と田舎の違い、まさにそれに尽きます。「パンとコーヒー」なんて、テレビで見るものだとしか認識していなかった私にとって、そんな世界が現実にあることが信じられなかったのです。

 トースターも初めて見るものでした。焼き上がると「ポン」と飛び出すアレです。なんとアメリカンドラマな感じでしょうか。私は叔父さんの家で、初めてトーストされたパンにバターを塗り、コーヒーを味わったのです。そうそう、給食でマーガリンはありましたが、バターはこれが初めてではなかったでしょうか。

 こんな状態ですから、「豆から挽いたコーヒー」を初めて飲んだのは、先生に言われた高校1年生の時でした。当然、砂糖を入れ、フレッシュも入れて飲んだのですが、のちに「暑い時は苦いコーヒーをブラックで飲むのが一番や」と主張する友人に感化され、2年の時以来、ブラックしか飲まなくなりました。

 「コーヒールンバ」という歌がありました。恋の秘薬としてコーヒーを歌っています。しかし私にとって、コーヒーは都会の味以外の何物でもありませんでした。
天 気 図
 天気図を取り上げるのは、この項目の趣旨とはちょっと違うのですが、小学校の時から好きだったので少し聞いていただきます。小学生の時、私は「科学部」に入っていました。今から思えば科学部の活動は、モーターを使うプラモデル作りに熱中していて、とても科学部とは言えない状態だったと思います。ただひとつ、天気図の作成を除いては。

 どういういきさつだったか、科学部で毎日天気図を黒板に書いて、5年生・6年生の校舎(大正時代に建てられた木製の校舎で、1年・2年、3年・4年、5年・6年と3棟に分かれていました)の東の端に掲示しようと言うことになりました。科学部は自主性を尊重していたのか、たんにずぼらだったのかは分かりませんが、その作業に携わったのは、飯田くん(今や三重大学教授)と私の二人だけでした。

 先生の指導のもとに、ベニヤ板に「とのこ」を丹念に塗り重ね、緑のペンキをその上に塗り、さらに日本と東アジアの地図を描くという、黒板づくりから始まったのでした(のちにこの経験は教室を舞台にした芝居「三太が街にやってきた」で生かされました)。何日かかったでしょうか、ようやく黒板が出来上がり、壁に設置します。その翌日から、私と飯田くんは毎朝、家の新聞から天気図を切り取ってきて、そこに書かれた通りの「等圧線」や「低気圧」を書き込む作業を卒業するまで続けたのでした。

 そのおかげでしょう、今でも天気図を見れば大体の天気予報は可能です(正確には上空の天気図も必要)。また、大学の夏休みは長いですから、1年生の時には「東急」だったか「西武」だったかで、正式の天気図の用紙を大量に買い込み、帰省中、1日3回、NHKラジオから流される「気象情報」を聞きながら天気図を作成したものです。「ウルップ島、晴れ、北西の風、風力7、06ミリバール」とか「三陸はるか沖、東経160度23分・・・」などという言葉を記号にして地図に書き込んでいく作業です。

 もっともミリバールはヘクトパスカルに変わりましたし、風力の記入方法も国際基準が変更されており、流れてくる地名にも変更があり、とても今では書けないでしょうね。何しろ同時通訳のようなものですから、もたもたしていると次の情報が流れて来るという、時間との勝負の世界でしたが、私には面白かったのです。
弁当箱 の パ ン
 菓子パンであれば、一身田と言えども店に売っていました。一番近いお店は、家から数十b西の「三洋軒」です。「三洋軒」はお菓子屋さんではありますが、駄菓子屋さんではありませんでした。とは言っても駄菓子を扱っていないわけでもありませんが、いわゆる駄菓子屋さんとは少し違いました。夏になると「かき氷」もやっていて、「蚊帳とかき氷」に書いたように、野球のナイターには欠かせないものでした。

 よく買ったのは、当たりはずれのある「芋飴」や「キャラメル」「アイスクリーム」「おかき」、ごくまれに「チョコレート」でしたが、お店のメインは「パン」だったと思います。ですから「パン屋」さんと言うべきかも知れません。当時はあんパン、ジャムパン、クリームパンがパンの3大帝王でしたが、3色パンもありましたし、当時好きだった蒸しパンもありました。

 ただ、パンと言って思い出すのは、母親が作ってくれたパンですが、あれは本来はパンのジャンルには入らないのかも知れません。母親に確かめていないので分かりませんが、イースト菌を使わない、つまり発酵させないものですから、パンと言うより、ケーキやクッキーに近いものです。恐らく、私以上の年代の方なら、ああ、あれか、と納得していただけるのではないでしょうか。戦後の臭いが漂う「パン」です。

 子どもの時ですから、材料は分かりません。多分、卵の白身を泡立て、若干の砂糖と塩と卵黄と小麦粉、そして重曹が入っていたのではないでしょうか。「アルマイト」の弁当箱(板で絶縁してあったと思います)に材料を入れ、あとは蓋をして手作りの電極を取り付けて、コンセントに繋ぐだけです。あの味から言って、材料も手順もそんなものだろうと思うのです。

 今から考えるに、太平洋戦争後、飢えをしのぐためにいろんな工夫をしたのでしょう。そのひとつが、配給の小麦粉を利用して編み出された弁当箱パンではないでしょうか。どんな風に生まれたにせよ、とても美味しかった記憶が蘇ります。少し蒸しパンに近い味だったような気がします。幼い頃の、懐かしい懐かしい、あれが私にとっての「お袋の味」だった気がします。
映  画
 昭和30年代は見る娯楽の中心が、映画からテレビに移行し始めた時代ですが、テレビの普及が一気に進んだわけではありませんから、やはり映画を見ることが大きな娯楽だったろうと思います。しかし一身田には映画館がなく、私はあまり映画に触れる機会がありませんでした。ただし、さらにそれ以前、いつの頃までかは分かりませんが、実は一身田にも映画館があったそうです。

 おまけに一身田をロケ地とする映画が分かっている限りで20本ほどあります。高田本山周辺や蔵の建ち並んでいた毛無川沿いなどで撮影が行われました。「寺内町の館」に隣接する菓子製造販売の「春乃屋」さんには、撮影風景などの写真があります。一身田をロケ地にした一番有名な映画は、1943年版の「無法松の一生」でしょう。主演は阪東妻三郎さん、通称「阪妻」です。高田本山の太鼓門前で「阪妻」が人力車を引くシーンが撮影されています。ここをクリックするとそのシーンの写真(上から3番目)が出てきます。

 このように意外にも一身田は映画と縁が深いのですが、30年代には映画館もなく、ロケも行われていませんでした。それで私も映画に縁のない子ども時代を過ごしました。そんなある日、学校で映画の割引券(だと思います)が全員に配られました(当時はそんなことが行われていたのですねぇ)。多分、ねだっても映画に連れて行って貰ったことがなかったからでしょう、どうせ行かないからと私は先生に割引券を返したのです。

 そうしたら先生がその話を親に伝えたのでしょうね。なんと父親がその映画に連れて行ってくれたのです。恐らくその映画が、私が初めて見た映画だと思います。それはディズニーの「101匹ワンちゃん大行進」でした。その後は「ガメラ」や「大魔神」も見せて貰いました。
あ ら れ
 さすがに昭和30年代と言えども、前述のように店には様々なお菓子がありました。勿論、種類は限られていましたが、それでも子どもたちは満足していました。しかし、お店では買えないお菓子のひとつに、「あられ」がありました。「田舎あられ」と表現しないと通用しそうにもありませんが、「あられ」と言えば、あのあられです。

 お店で売られているあられは、しょうゆで味付けされたもので、「塩あられ」と言うのでしょうが、当時の一身田の人たちは「しょーあられ」と呼んでいました。「塩あられ」がなまったものだと思います。これはこれで大変においしかったし、値段も手頃でしたので、シャベルのようなもので紙袋に入れて貰い、よく食べました。

 でも「あられ」は「あられ」で実に美味しかったものです。例年、1月の終わり頃、色粉を入れて黄色や赤い色の餅をつき、小さく切って乾かします。これを直径20センチあまりの金網製の「あられ炒り」で炒るのです。熱源は言わずと知れた七輪です。こまめに上下をひっくり返しながら、ガラガラガラガラとやっていると、すぐにプッーと膨らんできますので、焦げないように頃合いを見計らって火から外します。これで一丁上がりです。そう、あられを炒ること自体も楽しみでした。

 保存が利きますので大きな缶に入れておき、日頃のおやつとして食べました。母親の小さい頃(昭和10年前後)ですと、一身田よりさらに田舎だった山向こうの河芸町南黒田には、お菓子なんぞを売っている店とてなく、尋常高等小学校の遠足のおやつには「あられ」を持っていったそうです。

 おやつとして食べるだけではなく、主食として食べることもできます。茶碗にあられを入れ、塩を振りかけ、その上に熱いお茶を注ぐだけです。「あられ茶漬け」の出来上がりです。すぐに食べるとまだ中がカリカリしていますが、やがて中までお茶が浸透して程良い柔らかさになったものが一番美味しかったと思います。これは田舎特有の食生活ではなかったようで、津市中心部に育った市の職員の方が、今でも時々召し上がる、とおっしゃっていました。

 主食と書きましたが、実際にはご飯の代わりではなく、ちょっと食べ足りないな、とか、小腹がすいたな、という時に食べていました。実は昨日(09年3月4日)、母親がそのあられを炒って持ってきてくれました。久しぶりに「あられ茶漬け」を食べてみようと思います。ただ、餅からあられに切り出す時に、たくあんの尻尾のように、あえて大きめに端っこを残してもらい、それを焼いたのがとっても美味しかったことを覚えています。
地 球 ゴ マ
 「地球ゴマ」―――若い世代の方々は恐らく殆どご存知ないでしょうが、40代から上の方々なら、相当のお年の方でもご存知ではないかと思われます。ご存知ない方のために「地球ゴマ」の動画を下にアップしておきます。地球ゴマに出会ったのは小学校の低学年の時だったと思います。一身田の最大のイベントである「お七夜」さんの露店でした。金属的な輝き(金属製なので当然なのですが)と、従来のおもちゃにない斬新なデザインが、なんだか随分と未来的なものに見えました。

 露店で回っている数々の地球ゴマ、指の上で、糸の上で、もうひとつの地球ゴマの上で、そうした地球ゴマたちが子どもの心に刻み込まれ、「わた菓子」も、「おたやん飴」も、「桜おこし」も、「生姜糖」も、すごい勢いで吹っ飛んでいきました。欲しい―――いくらだったのか、全く記憶はありませんが、両親にねだって買ってもらいました。

 糸を巻いて引っ張るだけ、不思議な不思議な独楽でした。開発した名古屋の「タイガー商会」が今でも製造しているそうです。「遠心力応用科学教育玩具」と銘打たれているようで、ウィキペディアによると次のように説明してあります。

 フランスの物理学者ジャン・ベルナルド・レオン・フーコーが1852年に実験で用い命名したジャイロスコープの原理に基づく純国産玩具であり、名古屋で製造・販売している株式会社タイガー商会の登録商標である。

 円盤が高速で回転運動を行っている間は、外部から力が加わらないかぎり回転軸の向きが常に一定不変に保たれる。
 回転軸にいったん外力を加えると、その加えた力とは直角(垂直)の方向へ回転軸が移動する。

この二つの特性をジャイロ効果とよび、地球ゴマはそれを独楽(こま)の原理にしたものである。地球ゴマという名前の由来は、これを使うと地球の自転・公転運動を説明できるところから付けられた。

 どこの店で扱っているのかもウィキペディアには書いてありますし、ネット上でも入手可能です。興味のある方はどうぞ。

実演 その1 実演 その2 実演 その3 実演 その4
実演 その5 簡単な回し方 普通の回し方 地球ゴマ
便 所   漉き返しの紙
 今では「便所」という言葉もあまり使わなくなっています。まあ、一般的には「トイレ」ですよね。しかし30年代の「トイレ」は、やはり「便所」の方が相応しいと思います。なんなら「雪隠」と呼んでもいいかも知れません。

 「泥棒」の項で少し触れたように、水洗ではなく、「汲み取り便所」です。臭いますから和式の便器には木製の蓋が置かれていました。必要が生じるたびに蓋を持ち上げ、壁に立てかけて用を足したものです。定期的に「溜まったもの」を汲み取って貰うのですが、溜まりすぎると、用を足した時に「お釣り」というヤツがお尻を襲います。しかし、その瞬間にひょいとお尻を持ち上げれば被害を受けることもありませんから、当時の人々は、恐らくみんなその「技術」を持っていたのではないでしょうか。

 「便所」と言えば「紙」にも触れなければなりません。若い方は「ロール式のトイレット・ペーパー」しか見たことがないはずですが、当時のトイレット・ペーパーは、ティッシュ・ペーパーよりも若干大きな四角い紙でした。それも一般庶民の家庭では「漉(す)き返し」のネズミ色のしわしわの紙でした。今でもあの紙は存在するのでしょうか。見たことがないので少し懐かしい気もします。

 少し裕福な家庭ですと、使用している紙の質が違いました。色が白い上に、上等なものはしわしわではなく、きめの細かい上品そうな紙でした。柔らかいのでお尻に優しそうな感じですが、ネズミ色のごわごわした紙になれている私には、ちょっと頼りない気がしたものです。

 また、当時はまだネズミ色の漉き返しの紙すら使っていない家庭もたくさんありました。何を使うのか、そう、ご想像の通り、「新聞紙」です。どうでしょう、私の知る限りでは、昭和30年代も後半になると「新聞紙」の使用はなくなっていったのではないでしょうか。同時に漉き返しも使われなくなって、一般的に白い紙が普及して行ったと記憶しています。

 私の生まれた家は昭和29年に建てたと思うのですが、その頃は屋内に「便所」を作りました。と書くと、何を言いたいのか理解できない世代もあるでしょう。実は古い家ですと、「便所」を外に設置していたのです。父の生家も母の実家も外の便所でした。しかしこの形式の便所は、冬の夜が大変です。寒くて身体が冷え、布団に戻ってもなかなか寝付けません。また、子どもにとっては、夜中に真っ暗な外の便所に行くのは怖くて怖くて、とっても根性のいることでした。

 これは内便所でも、外便所でも同じですが、便所には水道が引かれていませんでした。手を洗うのにどうしたかと言うと、注射器をものすごく太らせた提灯型の水の容れ物があり、「針」の部分を内部に押し込むと水が出てくる仕掛けになっていて、それで手を洗っていました。あれは何という名前のものだったのでしょうか。そもそも名前があったのでしょうか。全く覚えがありません。そう言えば洗った手を拭くのはタオルではなく、「手ぬぐい」でしたねぇ。・・・少々臭いそうな話題ですみませんでした。
磨 き 砂  と  歯 磨 き 粉
 昭和30年代、当然のことですが、石けんは普及しています。しかしそれは手洗い用の石けんであって、台所用洗剤なるものはまだなかったように思います。では何で食器を洗うのかと言えば、磨き砂です。津市は磨き砂の産地でしたから、余計にそれが普及していたのでしょうか。しかし磨き砂はいつの間にやら消えていきました。多分、急激に社会全体が豊かになり出した昭和39年、東京オリンピックの頃から台所用洗剤が普及したように思います。

 「日本石鹸洗剤工業会」のHPによれば、1956年に初めて台所用洗剤が発売されたそうです。他のサイトの資料とも併せると、一般家庭用という意味のようです。そして同年、「厚生省が各都道府県に野菜と食器は台所用洗剤で洗浄して食品衛生の向上を図るよう通達を出し」とありますから、当時多かった回虫の駆除を名目に、業界が政府を動かして「保健衛生思想の普及」を図ったのではないでしょうか。

 今は「歯磨き」と言えばチューブに入った「練り歯磨き」が当然ですが、以前はそうではありませんでした。わが家で使っていたのは、確か緑色のビンに入ったペパーミント味の「歯磨き粉」でした。そう、粉だったのです。それを歯ブラシ(これは当時ありました)につけ、水をつけて使用するのです。恐らくライオンの製品ではなかったかと思うのですが、定かではありません。※この記事を書いた翌日、同級生と話していたら、やはりライオン製品で、粉は淡い水色だったと指摘され、色も思い出しました。

 しかし歯磨きの歴史がつづられたサイトによれば、相当以前から練り歯磨きが売られていたようです。わが家でも「歯磨き粉」の歴史は短く、私が小学校の低学年だった頃までしか使っていなかったように思います。つまり、これも東京オリンピックの頃ということです。こう考えてみると、日本の家庭を劇的に変えたのは、高度成長経済の中で催された東京オリンピックなのですね。
卓袱台(ちゃぶだい)  蝿帳(はいちょう)  お櫃(ひつ)  水屋
 日本社会では昭和初期まで「箱膳」が使用され、一家揃ってテーブルに付く習慣がありませんでした。しかし30年代には最早そのような習慣はなく、脚の折り畳める「卓袱台」が使用されていました。随分小さかったように思いますが、丸い卓で、わが家では一家4人がそれぞれの定位置に正座し、食事をしました。今では食事の際に正座することさえなくなってしまいましたが、卓袱台そのものも「お勝手」の洋風化とともにテーブルに取って替わられました。

 卓袱台に付き物だったのが「蝿帳」です。卓袱台とともに消えてしまいましたが、卓袱台に並べた料理に蝿がたからないようにかぶせた、いわば「ご飯のための蚊帳」と言えるでしょう。何しろ当時は蝿が多かったですから。おおむね四角形の傘のようなもので、風が通るように網製でした。わが家の蝿帳は確か、網戸のような青っぽい色ではなかったかと思います。

 もうひとつ付き物だったのは「お櫃」です。言ってみれば、木製の桶に蓋のついたものです。炊きあがったご飯をお櫃に移し替え、布巾を掛けて余分な水分を吸収するようにした上で、蓋をしていました。卓袱台の部屋には「水屋」がありました。「水屋」とは本来、茶室の隅にある茶器を洗ったり、置いたりする場所のことですが、いつしか食器や食べ物等を入れる「箪笥」の呼称になりました。食器や食べ物を入れるためですから、メインの扉は網戸で風が通るようにしてあり、煮物や佃煮などが水屋に入れてありました。

 この記事を書いていて思ったのですが、母親の世代の味付けが総じて濃いのは、食べ物の保存の意味があったのではないでしょうか。よく田舎の料理は味が濃いなどと言いますが、実は保存技術のなかったことに起因しているのではなかったかと思います。
三 和 土(たたき)
 三和土―――「たたき」と読みます。花崗岩や安山岩が風化してできた土に、石灰、にがり(塩化ナトリウム)を混ぜ、突き固めた土間のことです。3種類の原料で作るので「三和土」と書きます。三和土に特別な思い出があるわけではありませんが、今や三和土なるものの存在が忘れ去られているように思いますので、この項を起こしました。

 一身田中心部の商店街の通りの家々は、かつてはすべて商家であったため、京都の町屋のように奥行きの深いウナギの寝床式の住宅が一般的です。現在私が住む借家もそうですが、玄関を開けると「通り庭」と呼ばれる通路が奥まで続いています。部屋は通り庭に沿って一列に並んでいます。今はどこのお宅でもコンクリートに替わりましたが、この通り庭が三和土で、そのまま「お勝手」につながっていたのです。

 農家ですと三和土の玄関は広く、仕切はありますが、そのままお勝手につながり、お勝手は餅つきをしたり、物置としても利用するので、極めて広いスペースが取ってあり、それがすべて三和土でした。私の生家は農家ではありませんが、玄関を開けた所が3畳ほどの三和土で、「上がり端」があり、廊下がありました。お勝手も当然三和土でした。三和土は堅く固められてはいますが、土ですから湿気の調節機能も持っており、土壁と同様、日本の気候に合っていました。
日 光 写 真
 「昭和レトロ コレクター天国」というサイトを見ていて発見しました。日光写真です。そう、小学生の何年生頃だったか、日光写真が流行りました。写真と言っても、フィルム式の写真やデジタル・カメラを想像してはいけません。印画紙に写したい型紙を乗せ、何分か日光に晒していると、型紙の形が印画紙に焼き付けられるものです。

 従って平面的なものしか写すことはできませんが、いろんな物を乗せて楽しんだものでした。詳細を知りたい方は「昭和レトロ コレクター天国」「日光写真」のページをご覧下さい。写真機と型紙の写真がたくさんあります。
紙 石 鹸  と  風 船
 同世代の方、紙石鹸を覚えていますか。若い世代の方、紙石鹸をご存知ですか。と言っても紙でてきている訳ではありません。紙のように薄い、と言うことです。駄菓子屋さんで売っていました。学校で時折り、ハンカチとちり紙を持っているかどうか、汚れていないかの検査があったのですが、石鹸は別に必需品ではありませんでした。でも、いい香りがしてお洒落な感じだったので、男の子も持っていました。

 ネットで調べてみると今でも売っているんですね。ネットで買うこともできますし、作り方を公開しているサイトもありました。

 風船は普通のゴム風船のことではありません。「セメダイン」のように透明で、少し堅めのものがチューブに入っていて、それをちょっと押し出して短いストローを差し込みます。ゆっくりと息を吹き込むと風船のように膨らんでくる、ただそれだけのものです。それだけですが、シャボン玉と違ってすぐには壊れませんし、ゴム風船と違って透明ですし、こどもにとってはそれだけで楽しかったのです。

 これには名前が付いていたのでしょうか。なんと呼んでいたのか、すっかり忘れてしまいました。名前が分からないのでネットでも調べようがありません。やむを得ず、「セメダインのように透明な風船」と入力して検索したら、出てきました、出てきました。商品名はいろいろあるようですが、「透明風船」です。
蝿 取 り 紙
 今は昔、「蝿取り紙」なるものが各家庭にぶら下がっていました。わが家にはなかったように思いますが、結構あちこちの家庭で見かけました。天井から頭の上まで茶色い油紙がびろ〜んと吊り下げられているのです。黄色と表現してあるサイトもありましたが、私の記憶ではいかにも油紙といった感じの茶色でした。

 名前の通り、蝿を捕獲するためのものです。蝿の好む成分が含まれているのか、臭いに釣られてぱたぱたとやって来た蝿が留まると、その粘着性でくっついてしまうのです。と言うことは、ゴキブリホイホイの蝿版だったわけです。しかし当時も子どもながらに思いました。不衛生の極みのように教えられていた蝿が、頭上にたくさんぶら下がっている下で、家族が卓袱台を囲んで食事をするのは、どうも不衛生ではなかろうかと。色と言い、ベトつき感と言い、ぬめっとした光沢と言い、返って不潔な感じがしたものです。

 大正12年に創業した「カモ井のハイトリ紙製造所」という岡山の会社が「平型」の製品を世に送り出し、昭和5年に、話題にしている「リボン型」を開発したそうです。現在でも「蝿取り紙」は製造されていますが、タイの子会社に製造を移しているようです。今の社名は「カモ井加工紙株式会社」で、粘着系のテープを開発・製造しています。

 ウィキペディアによれば、「古典的な製品ではあるが、基本的に殺虫剤の成分が入っていないため、食品を取り扱う事業所などでは必需品となる」と書いてあるのですが、ちょっと信じがたい気がします。「蝿取り紙」に触れたサイトがありますので、参考までにリンクしておきます。 「蝿取り紙@」 「蝿取り紙A」
ケ ー キ
 ケーキを食べたのはいつ頃だったでしょうか。当然、世の中にケーキはあったはずですが、小学校も高学年になるまで食べたことがなかったのではないでしょうか。つまり昭和30年代には、まだ食べたことがなかったように思います。

 多分、初めて食べたのは子ども会でのクリスマス会だったと思います。「ショートケーキ」です。長い間、ケーキというのは小さい四角いものだと思っていました。そして特別な日にしか食べられない特別なものでした。しかし、しばらくするとクリスマスケーキが普及し出して、大きい丸いケーキが食べられるようになるのですが、最初のショートケーキで味わった感動は最早なくなってしまいました。恐らく初めてのショートケーキにはイチゴすら乗っていなかったと思うのですが、世の中にこんなに美味しいものがあったのか、というくらいに美味しかったのです。
天 花 粉
 「天花粉」を調べてみたら、「黄烏瓜(きからすうり)」の根のでんぷん、とありました。根は皮相を除いて漢方の生薬になるそうです。あれは単なる「でんぷん」だったんですね。このページを見て下さる皆さん方は、覚えがあるでしょう。「あせも」よけの白い粉です。「和光堂」という会社のサイトでは「そのでんぷんは水分をよく吸い取るので、その吸湿性を利用してあせもの治療に用いられてきました。その粉末が雪(天花)のようにサラサラしていることから、天花粉と呼ばれています」と書かれています。

 小学生の時、風呂から上がると夏場は必ず、この天花粉を背中、お腹、脇の下から腕、首回り、お尻から膝の裏まで、ほとんど体中にパタパタとつけられ、真っ白になったもんです。あれが効果があったのかどうか知りませんが、和光堂のサイトには「『小児必用養育草』(1703年:香月牛山著)にも記述のある」とありますから、日本人は随分昔からこんなことをやっていたようです。なお、「和光堂」とは「天花粉」の別名として知られる「シッカロール」を商標登録している会社です。
番 傘
 番傘とは竹製の骨に油紙を張った和傘、もちろん柄も竹です。他に使用していた学校があったのかは分かりませんが、一身田小学校では、入学と同時に名前入りの番傘が用意されました。急な雨降りの時の置き傘として利用されるものでした。職員室の2階が物置になっており、普段使わない運動会の備品などが置いてあり、番傘もそこに吊されていました。洋傘で言うと石突きの部分に革の輪っかがついており、それで引っかけておくのです。

 当時でも番傘は一般の家庭にはなく、洋傘が使われていましたが、何と風流な学校だったことか。もっと大切に扱って残しておけば、そして今も手元にあって使えるものであるならば、粋な姿でしょうに。洋傘と違い、番傘に落ちる雨の音がいいのです。パラパラと乾いた音がしました。今になって番傘の雨を楽しんで街を歩きたいなどと、思ってしまいます。
食 い 合 わ せ
 最近はとんと聞かなくなりましたが、昭和30年代には「食い合わせ」ということがよく言われました。「食い合わせ」とは一緒に食べると消化に悪いなどの食材の組み合わせのことです。今でも覚えているのは「スイカとかき氷」や「ウナギと梅干し」です。ただし、ウィキペディアで調べてみると、「天ぷらとかき氷」「天ぷらとスイカ」は出てくるのですが、「スイカとかき氷」は載っていませんでした。私の記憶違いでしょうか。

 「食い合わせ」の食材を絵にした表が貼ってあるのをどこかの家で見た覚えもあり、相当にポピュラーなものだったのですが、当時でもすでに一部は消化に悪いものの、大半は迷信という認識が定着していたように思います。しかし、昭和37年生まれの妻に聞いてみたら、「ウナギと梅干し」と即座に返ってきましたので、決して30年代までの話ではないようです。

 ウィキペディアで紹介されている「食い合わせ」の例はほとんど記憶にないものばかりで、もしかしたら地方によってとらえ方が違っていたのかも知れませんね。ちなみに「食べ合わせ」という言葉は意味が違って、単に取り合わせというような意味になるそうです。
伊 勢 湾 台 風 と  74年 の 水 害
 1959年9月26日の伊勢湾台風から明日でちょうど50年です。この時3歳だった私には全く記憶がありません。しかし父が写真を撮っていて、水浸しになった周辺の様子が分かります。その写真もその後の水害でダメになりました。我が家はその前年、58年の17号台風の被害にも遭っています。一人で寝ていた父が気付いた時には、布団ごとプカプカ浮いていたと言います。

 私の記憶に鮮明なのは71(昭和46)年9月の23号と29号台風、そして74(昭和49)年7月25日の低気圧による大水害です。

 71年の29号の時は四国沖にあった低気圧がいきなり台風になりました。その日、私は山岳部のメンバー、顧問の先生とともに御在所岳に入っていました。大急ぎで山を下り、近鉄湯ノ山線が止まっていたため、これが最後というバスで水を掻き分けて四日市駅に到着。名古屋線も動いておらず、長い時間待たされて動き出した電車に乗って高田本山駅に着きました。駅前は水浸し。キスリングという大きなザックを背負い、腰まで浸かりながら家に帰りました。

 74年の水害は近代の一身田史上最悪の水害でした。総雨量300o強の雨で志登茂川が溢水、文字通り一身田は全域が泥水の海になり、交通網は勿論、電話の中継基地も水に沈んだため、外部との連絡がすべて遮断され、陸の孤島になったのです。平屋だった我が家に避難する場所はなく、2階建ての隣家に避難しました。

 小舟を押して炊き出しのおにぎりを配り歩いていた伯父達の姿が蘇ってきます。連絡用なのか、救援用なのか、田圃をモーターボートが走り回っていました。後片付けが大変でした。真夏ですから水に浸かったものはすぐに異臭を放ちますし、汲み取り便所の始末も往生しました。以来、一身田では家の建て替え時に地盤を嵩上げするようになりました。
傷 痍 軍 人
 傷痍軍人なる言葉が理解できない世代が多くなったのではないでしょうか。戦争で手足を失うなどの障害を負った旧軍人のことですが、私のイメージをもっと正確に言うと、お七夜さんの時に高田本山の御影堂の前、石畳の脇で白衣を着て軍帽を被り、、白い箱を持ってアコーディオンを弾いて「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の・・・」と歌っていた人たちのことです。

 父か母に教えてもらいました。あの人達は戦争で手足を失って働けなくなったので、ああやって参詣者から幾ばくかのお金を戴いて生活しているのだと。確かに片足の膝から下がなかったり、中には両手両足を損傷して四つんばいの人もいました。

 昭和30年代は太平洋戦争が終わってから10数年、まだまだ人々の記憶に無惨な戦争の傷跡が生々しく残っていた時代ですが、いつの頃からか、お七夜さんに傷痍軍人を見かけなくなりました。多分、1970(昭和45)年の万国博覧会の頃からではなかったでしょうか。そして同時に戦争の記憶が風化していったのです。

 ここまで書いた所で妻と話をしていたら、平成に入ってから高田本山で傷痍軍人を見たと言い出しました。久しく見たことのない私にとっては青天の霹靂です。どなたか真実を教えてください。
ふ ん ど し
 「褌(ふんどし)」という漢字を見たこともない世代が圧倒的になっているかも知れません。可能性があるのは時代劇の中だけですが、それも洗濯のシーンにしか褌を見せる必然性がありませんので、お目に掛かる機会はほぼ失われています。

 褌には「6尺」と「越中」がありますが、一般庶民に縁のあったのは「越中褌」です。昭和30年代にはすでにパンツが圧倒的だったのですが、少数派ながらまだまだ褌の愛用者がいました。私の生家のお隣の小父さんも愛用していました。物干しに掛かる見慣れない物を指して、「あれは何?」と幼い頃に尋ね、それが私の褌との出会いだったのです。

 大学生の時、池袋の銭湯で「6尺褌」の実物を見ました。1976年か77年のことです。身体を洗っていると右隣の人が話しかけてくるのです。聞き取れなかったので、「はい?」と言いながら右手を見ると、背中に彫り物を背負った人が、「すみません」と謝って来るではありませんか。一体何事かとよく聞くと、「洗髪中の石鹸の泡を私に掛けてしまった」と言って謝っているのです。恐縮したのは私の方です。以後、私は泡を飛ばさないように、飛ばさないように静かに洗ったものでした。

 風呂から上がり身体を乾かしていると、先ほどの人が「6尺褌」を締めている所でした。あからさまに見ないようにしながらも、ついつい視線はそちらを向いてしまいます。下着を着け、白いカッターシャツを来て、その上にはスリーピースのスーツです。細身の筋肉質の体によく合っています。裏街道とは言え、きっとそれなりの地位に就いている人なのでしょう。ひょっとしたら何かの覚悟を定めるために身を清めていたのかも知れません。私が6尺褌を見たのは後にも先にもこの時だけでした。
卵 の ご 飯
 今では全国的に「卵かけご飯」と呼ぶようですが、私の家では「卵のご飯」、そう呼んでいました。多分、ご近所はみんなそうだったと思います。子どもたちの好きなご飯でしたが、あれは貧しさの象徴だったんですね。率直に言って他におかずがなかったのです。

 生家の隣は養鶏場で、商品用の卵がたくさんありました。ケージで鶏が卵を産むと、ころころ転がって前面に出てきて、それをひとつずつ採取していくわけですが、産み落とした時とか転がる過程で、割れないまでもひびが入るケースがあります。

 そうなる「割れ」と呼ばれて、商品にはなりません。そうした「割れ」の行き先は自家消費ですが、時々「奥さん、割れで悪いけど」の言葉とともに、わが家に回ってきます。「割れで悪い」ことはちっともありません。大いに家計が助かるありがたい出来事でした。そのおかげでやり繰りが随分助かったと思います。

 熱いご飯に卵を割り入れ、しょうゆをかけ、子どもたちは少し砂糖も入れたと記憶しています。本当においしかったのですが、ある日、かき混ぜ過ぎて泡立ってしまったのを見て、気持ち悪くなった私は、以来、「卵のご飯」が食べられなくなってしまいました。
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